始まりはあのステージから

 夏━━━。ソフトボール神奈川県大会2回戦、相武台北中対海岸中の試合は8-0で相武台北中リードで最終回の7回表、海岸中の攻撃だったがすでに2アウト。ノーアウトで四球で1人ランナーを出したが2塁に進められず、すぐに2アウトになってしまった。
「1番、キャッチャー坂崎さん」
アナウンスが流れるとネクストバッターサークルから、身長157cmと捕手にしては小柄な選手が右バッターボックスに入った。彼女は坂崎美樹。耳に被る程度のショートカットに太目の眉、少し大きな目のかわいらしいコだった。
 美樹はヘルメットのつばを1回軽くつまんでから足の位置を決め、そしてバットを構えた。相武台北中の投手が球を投げた、内角高めにストライク。次の球も内角低めにストライク。
 客席は2,000席程ある球場だが、入っているのは両校のベンチ入り出来なかった部員と応援に来た保護者、そして通り掛かった人位だった。その3塁側、海岸中側から悲鳴の様な声が聞こえた。美樹が簡単に2ストライクを許してしまったからだった。
 海岸中は伝統的に運動部が弱く文化部が強いという構図で、ソフトボール部も例外ではなかった。そのせいか、美樹はソフトボール部に入って運動神経が良いという理由だけで初心者であったにも関わらず即レギュラーになってしまった。その時は外野、主にライトだったが、上級生が抜けた去年の秋、捕手が居なくなったので何となくやってみたらリードがうまく肩も強いからという事で定着してしまった。一方、バッティングは、小柄な体格の為無理して長打を狙う事はせず、確実にランナーを返すバッティングに徹していた。出塁率は高く、打点もかなり挙げ、チームのポイントゲッターとなっていた。
「美樹、何とかランナーを進めて……」
2番打者の有田香はネクストバッターサークルで指を組みながら祈った。今まで美樹は色々な所でチームの危機を救って来た。県大会出場が掛かる試合での逆転タイムリーツーベース、そしてその後の相手の攻撃の時、同点ランナーの盗塁を阻止した等、チャンスで打ちピンチから救ったのだった。だから今回もきっと何かやってくれる、そんな期待があった。
 相手バッテリーのサインが決まり、美樹は構えた。投手が球を投げ、球は内角に来たが先の2球よりは甘い所に入ってきた。美樹はバットを振った。タイミングはドンピシャ。美樹の鋭いスイングは……。
「ストライクバッターアウト!ゲームセット!」
主審の声が無情に響き渡った。美樹のスイングは空を切り、結局この投手から打つ事は出来なかった。美樹はきつく目を閉じ、奥歯をぎゅっと噛みヘルメットのつばをつまんで悔しそうな仕草をした後は普通にベンチに走って戻り、バットを置いた後急いで整列した。他の部員は泣いていたりしていたが美樹は泣かなかったし、もう悔しそうな顔もしていなかった。
 美樹にとって、いや、海岸中にとって初めての県大会、そして美樹の中学最後の夏はこうして終わった。

 美樹はソフトボール部を引退した後も部活でやっていたトレーニングを個人でやっていた。近くの市立公園内にジョギングコースがあり、更にトレーニングジムもあったので週に2回そこでトレーニングをしていた。この公園は海岸中の学区内にある為、丁度学校の西側に住んでいる生徒は公園内を横切る形で帰っていた。当然、美樹と一緒にソフトボール部を引退した3年生もその中に含まれていた。
「あれ、美樹。ランニング中なんだ」
美樹がジョギングコースを走っている時に帰宅中の有田香と会った香は美樹より少し大きい身長160cmで髪型はソフトボール部時代はポニーテールにしていたが、今は長い髪をストレートにしていた。美樹は足を止め、
「うん」
と答えた。香はコクリコクリと1人納得した感じで頷き、
「そっかそっか。美樹は高校行った時に備えて練習なんだね?」
と聞くと美樹は、
「ううん。違うよ」
と笑顔で否定した。それから美樹は一瞬空を見上げて寂しそうな表情をしたが、すぐに元の表情に戻った。高校に入ってからもソフトボールを続けるかどうか、少し考えたがすぐに答えは出た。海岸中を8-0で破った相武台北中が次の試合で5回コールドで負けたのを知り、美樹は高校行ってからソフトボールを続けるかどうかの結論を出した。守備はともかく、打撃では通用しない。それが美樹の出した結論だった。
「え……?じゃあ……」
と香が聞くと、美樹は、
「うん、決めてない」
ときっぱりと答えた。香の聞きたい事は大体分かっていたから。
 この公園のランニングコースは東側半分が森の中を通る様な感じのコースで、走ってよし、歩いても森林浴をしている感じがして気持ち良かった。一方、西側半分は逆に日光を浴びながら走るコースだった。夏は厳しいが他の季節は場合によっては東半分よりも良かった。美樹は部を引退した後1週間位は他の同級生達と同様に帰りのHR後、直帰していたが、急に体を動かさなくなったので何となく気分が悪かった。そこでランニングやトレーニング、バッティングセンターでバッティング等をやる様になった。

 体を動かす事が習慣になっていた人がそれをやめると何となく気分が悪くなる、というのはまた動かすようになれば元に戻るのだが、中学に入ってからソフトボール一筋でいたのが、それがなくなってしまい、心に穴が開いた状態になっていた。だったら高校受験も近いんだし、勉強に精を出せばいいじゃないかと思うかもしれないが、一筋だったソフトボールをもうやらないと決めている美樹は目標を失っていてその為にボーっとしている事も多かった。勿論美樹自身それを自覚していたので、進路指導室で勉強したり、志望高校リスト、過去問等を見ながらモチベーションを保つ等の努力はしていた。

 11月━━━。晩秋になると毎年の事だが風景が一変する。木々が葉を落とすので今まで葉で埋められていた空間はそのまま空洞のように見え、太陽の高度が下がった分風景は夏に比べてオレンジ掛かって見えた。
 美樹は教室から、校門にある葉を落とした桜を見て溜息をついた。桜の後ろに校門があり、門柱の片方は春から秋までは教室からは見えないが葉を落とした今なら見える。
「……ん━━━」
HRが終わり誰も居なくなった教室でボーっとしていた。しかし、このままボーっとしていても仕方ないのは分かっていたのでいつものように進路指導室に行く事にした。その時、
「さっかざっき!」
と元気よく呼ばれた。教室から進路指導室までは同じ階なので真っ直ぐ行けば良かった。間に職員室があるのでそこを通らなければならないが、その職員室の前で声を掛けられた。声の主はクラスメイトの野沢秀子だった。彼女は身長166cmとやや大柄で、その身長を生かし、ハンドボール部でキーパーをやっていた。髪型はショートカットで如何にも元気な体育会系といった感じだったがそれでいて成績もクラスで5番目に位置し、文武両道と羨ましがられた。彼女より上位の4人は何れも進学校狙っていますといったガリ勉タイプなので、余計ハンド部で活躍した彼女が目立った。
「高校、城之内だよね〜、坂崎と一緒じゃないとやだな」
秀子が言うと、美樹は、
「城之内はやめた。ヒデと同じ三山にする」
と答えた。秀子は冗談のつもりで言ったのに美樹が本当に三山高校に変えて来たので思わず声を上げてしまった。中2からの付き合いなので大分付き合いも長くなってきたが、時々美樹はとんでもない事を言うので良く分からないヤツと思っていた。しかし、今回はいつも以上だった。
 秀子は美樹には"ヒデ"と呼ばれていた。身長があるのとボーイッシュな感じから美樹が付けたあだ名だった。勿論そんな男みたいなあだ名で呼ぶのは美樹以外には誰も居なかった。
「ん〜、でも坂崎、最高でB判定だけど大丈夫?」
秀子は心配になって尋ねた。美樹は、
「B出したのだってここ2回だから大丈夫」
と笑顔で答えた。秀子は、ここ2回ってそれだけで決めるのか?と突っ込みたくなった。またいつもの気まぐれが始まったといった感じに思えた。中学に入って秀子は部活にすぐ入り、ハンドボールにどっぷり漬かったが美樹はそうではなく、仮入部をしては辞め、他の部に仮入部をして、と繰り返していた。しかもその範囲は広く、文化部にまで行っていた。そして6月にソフトボール部に本入部した。
 秀子は1年の時は美樹とは違うクラスだったので友人関係に無く、その時の事は知らなかったが、その当時の美樹のクラスメートに後で聞いた話では、
「ソフト部に入った理由?ソフトも面白いんじゃないかな━━━って」
と答えたらしい。秀子は2年になってから美樹と一緒になった。1学期に球技大会があったが美樹は自分の出たい種目が無かった。ソフトボール、バレーボール、バスケットボールがあったが、何れも部活でやってる人は2人までしか入れなかった。クラスにソフトボール部は美樹とあと2人いたので話し合いになったのだが、美樹は2人にあっさりと譲った。すると、ソフト部一の俊足の美樹の身体能力ならば体育の授業程度の経験しか無くとも何とかなってしまうだろうと誰もが思い争奪戦が始まった。秀子はハンドボールにルールが近いという事でバスケットボールに入っていて、他の人達と同様、美樹を引き込もうと声を掛けた。すると美樹は、
「それなら、バレーとバスケのリーダー同士でくじ引きして当てたほうに入る」
と返事した。結果、バスケットに入りクラスの優勝に貢献したのだが、美樹にとって種目はどっちでも良かったのかも知れない。いや、ソフトボールすらどうでも良かったのでは、と思えた。球技大会では燃えないのかもしれない━━━と。
 美樹はいつもこんな調子だったので、秀子は今回の高校受験もそんな調子で考えてるのかと思った。それを考えると、ソフトボール部を引退した後、しばしばボーッとしていた美樹は意外だった。入部した時、
「ソフトも面白いんじゃないかな」
と言い、引退後、高校に入っても続けるのかと尋ねた時、あっさり否定したので、入部もこの先の事も気まぐれで決めたと考えられるが、少なくとも美樹がチームの要になり、初めて県大会に導いた事は少しは燃える事だったに違いない。
 秀子は思った。美樹は三山高校を難なく合格するかもしれない、と。さっきは心配したものの、球技大会の件もある。始めるきっかけは気紛れだったにしろ、一度始めたらとりあえず終わるまでは結果を出してくる。三山を受けると言った以上は、必ず合格ラインに乗せてくる━━━と。
「ヒデ。ここはどうなってるの?」
美樹の質問で秀子は我に帰った。そして慌てて、
「ここはね、xをyに代入して、こうしてこうすると━━━こうなる」
と方程式を解いた。今解いた問題は何だかやけに難しいと思いもう一度問題を見てみると、私立の桐東高校と括弧内に書いてあった。桐東高校は秀子でもBランクとCランクを行ったり来たり、といった感じだった。
「坂崎、脅かさないでよ。桐東の問題じゃん」
秀子が言うと、美樹はペロッと舌を出して、
「ゴメン。でも流石ヒデ。ありがとう」
と笑顔を見せた。この笑顔を見てしまうと、物言いつけるのもアホらしくなってしまい、やめた。

 2週間後、模試の結果が返ってきて結果に気を良くした秀子は美樹に、
「ねェ、今度の休みに大淵大の文化祭行かない?」
と誘った。三山高校の判定がAなのは勿論、それ以上にクラスで3位に入り4強の牙城を崩せたのがとても嬉しかったのだった。一方美樹はB判定、3回連続だ。クラス内では7位と初めて一桁に入った。
「いいよ」
美樹はいつものようにあっさりとOkした。模試で初めてクラス7位になり、気を良くしたから、というよりはいつもの気紛れといった感じではあったが。
 当日、美樹は黄色いベレー帽を被り、白いシャツの上にジャケットを着て、下はチェックのミニスカートに白いソックスとスニーカーというかわいらしい格好で出掛けた。美樹の家から大淵大学までは10km位離れていて、自転車でおよそ30分掛かった。家を出てから銀杏並木の県道へ一旦出てから欅(けやき)並木の市道へ出て、大渕大入口交差点で左に曲がって暫く進むと大学に着いた。大渕大は周りの緑と調和するようなイメージでデザインされ、構内も緑が多かった。
 幅10m程の正門の右側に通用門があり、そこも開いていた。門の傍に自転車で来場の方はこちらに停めてください、と矢印の下に書いてある看板が置いてあった。美樹はそこに自転車を置き待ち合わせ場所のバス停に行った。
 暫く待っているとバスが到着し、秀子が降りて来た。
「坂崎おはよう。待った?」
「ううん、全然」
実際美樹が待ったのは3分位だった。秀子は美樹の返事を聞いて安心し、
「んじゃ、何処に行く?」
と聞いた。答えは分かっていたが。
「何処でもいいよ。ヒデの好きな所で」
美樹の答えは秀子の予想通りだった。
 2人はキャンパスに入り、とりあえずお約束のフランクフルト、焼き蕎麦を買って食べる事にした。正面から入って左へ伸びる道なりに行くと大学図書館があり、そこの前にいくつかベンチがあり、そこに2人並んで座り食べていた。かわいらしい格好の美樹に対してTシャツの上にデニムのチョッキを着、デニムのGパンにスニーカーというボーイッシュな格好をして、更に身長が166cmある秀子が並んで座っていると男女のカップルに見えた。それが幸いしたのか、美樹をナンパする人はいなかった。
 図書館前はベンチがあるスペースの他は芝生になっていて所々に木が植えてありそこに居るだけでのんびり出来るような空間だった。美樹と秀子の他にも、出店で買ってきた物を食べてる人や、友達と円を作って蹴鞠のような感じでサッカーボールを蹴っている人達、芝生の上で寝転がっている人等色々いた。

 秀子は美樹より先に食べ終わり、美樹が食べ終わるのを待った。そして美樹が食べ終わったのを見て立ち上がり、
「んじゃ、行こうか」
と言ってパンフレットを見た。正門で買った物だ。
「ふーん。占い……ね」
美樹は横から覗いて言った。秀子は顔を赤らめパンフレットを閉じた。占いやぬいぐるみ集めといった可愛らしい趣味を持っているが、小学生の時、似合わないとからかわれた経験があったのでそれ以来秘密にしていた。
「何赤くなってるの?」
美樹は聞いた。美樹は秀子が占いが好きな事自体知らなかったので、顔を赤らめる理由が分からなかった。秀子は恥ずかしそうに、 「あたしみたいなのが占い好きって言っても笑わない?」
と恐る恐る聞いた。美樹は、
「何で?秀子が占い好きになっちゃいけない理由なんて無いんじゃないの?」
と言った。秀子は苦笑いした。秀子は美樹が、占い好きなのが似合ってるとか、そういう趣味を持ってるなんて可愛いとか思って気を利かせたのではなく、唯単に人がどんな趣味を持ったって自由ではないか、という観点からしか見なかった事に少し呆れた。美樹自身はそんなに可愛い格好しているんだから、そういう所を理解してくれてもいいのではないか━━━と。しかし、少なくても他の人みたいに笑ったりからかったりしなかった事に対しては嬉しく思った。
「そんじゃ、行こうよ。その占いの館」
美樹は秀子の腕を引いて占いの館を開いてる西洋魔術研究会という如何にも怪しげなサークルの所に向かった。美樹は、秀子がそんなに占いが好きなら、自分も占ってもらうのも悪くは無いと思った。
 2人はとりあえず定番の恋占いをしてもらうことにした。テーブルの向こうには如何にも怪しげな格好をしている占い師が席についている。美樹と秀子はそれぞれ占い師に利き腕の右手を出した。占い師はそれを注意深く見て、傍に置いてある水晶玉に手をかざし、
「あなたには恋の神はまだ微笑みませんが気長に……そう、4年位待って下さい」
秀子にそう言い、美樹には、
「あなたは6ヶ月以内に恋出来るでしょう」
と言った。秀子は天を仰ぎ、
「畜生ー。4年もかよ」
と叫んだ。一方美樹はそんな秀子の仕草を見て、
「じゃ、この運あげようか?」
と笑って言った。秀子は、
「え?坂崎彼氏欲しくないの?」
と思わず聞いてしまった。美樹は、
「うん。面倒臭そうだし」
とさらっと答えた。秀子は苦笑いして、
「変なヤツ」
と言った。美樹は秀子のそんな言葉に対しても笑顔を返した。中学生になると恋に恋するもの。秀子はまさにそれの真っ最中で、部でもクラスでも、彼氏募集中と言ってきた。一方美樹は全く興味無い様だった。部でもクラスでも、グループ内でそういった話が出た時、美樹はにこにこしながら聞いていたが、ただ聞いていただけだった。そういえば誰かが美樹に言った事がある━━━。
「アンタ、野球部とかサッカー部で人気あるんだよ」
秀子はその度に不公平だと思っていた。野球部やサッカー部の人達は美樹の可愛らしい笑顔が自分に向いたらいいな、とそう思っているのだ。また、人気スポーツやってて彼女もちなんていったらそれだけで目立つというか、注目の的になる。その彼女がソフト部で、いや、学年で一番可愛いと言っても過言でない美樹であれば尚更だ。しかし、当の美樹は、
「そうなんだ」
と何か数学の難問でも解く時の様な表情をした。要は解っていないのだ。秀子は毎日彼氏が欲しいと願っているというのに美樹は男子に人気があり、その事を本人は解っていないし興味も無い。そんな美樹に対してカチンと来る事もあった。しかし、それでも美樹は大切な友人なので離れる事は無かったし、逆に、なら美樹は何になら興味があるのか知りたいと思った。

「ち、ちょっと何?坂崎」
2人は占いの館を出た後適当に歩いていたが、秀子は突然袖を引っ張られて驚いた。それと同時に自分達が物凄い音の中にいる事に気付いた。美樹の方を見ると、美樹は右手は秀子の袖を握ったまま、左手で右を差した。美樹はこの音の中では声に出した所で秀子には聞こえないと判断して身振りのみで示した。そしてそのままその音のする方へ秀子をぐいぐい引っ張った。
 10号館と書かれた鉄筋10階の白い建物の前に特設ステージが作られていて、軽音部の4人組のバンドが演奏していた。そしてステージの前を埋め尽くすように100人程が音楽に合わせて踊っていた。ファンだろうか。美樹は一番前は諦めたがなるべくいい位置を押さえるべく人込みの中を掻き分ける様に進んだ。腕を引っ張られている秀子は混乱するばかり。
 ステージの前、それもVocalの男の前10mの所に陣取り、4人組のバンドの音に美樹は聞き入った。もう殆ど無意識にリズムに乗って指を鳴らし足を動かしていた。その間、秀子が声を掛けても全く気付かなかった。それは音が大きく秀子の声が聞こえなかった為だけではなかった。  そういえば誰かがいつか聞いた事があった。
「美樹って誰のファン?」
誰でも良くする他愛の無い話。美樹は、
「誰のファンでもないよ」
と言った。そしていつものようにグループの中で誰が誰のファンでいついつのコンサートに行くとかそんな話をにこにこしながら聞いていた。その時、美樹の頭の中にはこんな意識があったのかもしれない。アレは別世界の話だし、向こうは自分の事を知らないのに、好きだの何だの言って貢いでも意味無いのではないのか━━━と。しかし、ここで演奏しているロックバンド4人組はそうではなかった、と少なくても美樹は無意識のうちに感じていた。ガラスケースの中に入れられた宝石のように触れる事はご法度のテレビアイドルとは違い、観客と一体化してコンサートをやっていた。
 このバンドの音楽が好きかどうかは別として、このバンドは美樹に、ロックをやる事は別に特別な事ではない、という事を示してくれていた。
 このバンドのVocalはギターを弾きながら歌っていたが、ソロに入るとポケットからガラス瓶の頭だけ切り取ったものを弦を押さえる左手の小指にはめ、それを弦に当てて滑らせるように弾いた。その奏法は美樹にとって初めて見るものだった。そしてVocalがギターソロを引き終えると、指からその"ビンの頭"を外し、観客に向かって投げた。
パシッ
美樹はそれをキャッチした。たまたま自分の方に飛んで来たから……。それと同時に取り巻きが一斉に美樹の方を見た。
「坂崎!!逃げるよ!」
その声で美樹はハッと我に帰り、秀子に引っ張られながら逃げた。
「もう、危なかったよ。あのバンドの取り巻き、そのガラス狙ってたから」
「そうだね」
校門の外まで逃げて来て、誰も追い掛けて来ないのを確認してようやく一息つけた。
「しかし……坂崎がいきなり軽音見始めるなんてビックリだったよ」
秀子が言うと美樹は少し乱れたスカートを直し、
「決めた。私高校行ったら音楽やる」
と言った。秀子は開いた口が塞がらなかった。
「マジで言ってるの?」
「うん、大マジだよ」
美樹はニコッと笑って答えた。
 今まで美樹は何かをやるにしても、やるのも悪くない、とか面白そうなんじゃないの?とかそういう言い方をしていた。何もしないのも苦痛なのでとりあえず何かやっておこう、といった具合だった。何を見ても何をやっても本当に心の底から楽しい訳ではなかった。しかし、今回は、やるのも悪くない、では無く、やる、とはっきり意思を示した。あのバンドは自分達の音楽を聴いてもらい、そして応援されていた。美樹が応援されていたのは、「ポイントゲッター」の坂崎美樹であって、坂崎美樹個人では無かったのかも知れない。しかし、音楽の場合、"坂崎美樹"として応援してもらえるかも知れない。それがやるのも悪くない、ではなく、やる、とはっきり言わせた要因だった。秀子は、美樹が本当に興味があるものは何なのかと知りたいと思っていながらも、美樹があまりにもあっさりと言ったのでまたいつもの気紛れかといった感じで片付けてしまい、その差に気付く事は出来なかったが━━━。

 2月。美樹は併願の城之内高校、そして本命の三山高校を受けた。城之内高校は合格し、3月1日の三山高校の合格発表日。美樹と秀子は海岸中の正門前で待ち合わせた。
「うう……坂崎……緊張するよォ……」
秀子は会うなり言った。美樹は、
「そう?」
と聞いた。美樹は12月の最終模試で三山高校A判定を出し、順位も更に上げてクラス6位になったが、秀子は前回同様クラス4位だったので、自分より合格が堅い秀子が何故異常に緊張するのか解らなかった。
「アタシ……単願だから、さ」
秀子は理解していない美樹にそう付け加えた。つまり落ちたら浪人決定。城之内高校に合格を決めている美樹の様に心に余裕は無かった。まあもっとも美樹は仮に単願だったとしても涼しい顔をしてただろうが━━━。
「どこか受ければ良かったのに……」
歩きながら美樹は言った。秀子は、
「そ、そうだよね……。済んじゃった事はしょうがないけど……」
と答えた。自信があったから単願にしたので、英語でポカミスしたなんて言えなかった。特に冷静にサラッと流してしまう美樹には。

 三山高校。公立の様な名前の私立高校。理事長の名字をそのまま学校名にした高校だった。正門から入ると左に桜、右に梅の木があり、奥にはロータリーがあり、校舎があった。グラウンドには校舎のど真ん中に開いてる通路から行くようだった。
 合格発表は普通科は門から入って桜の木側、商業科、工業科、普通科2部(夜間)は梅の木側で行われた。美樹と秀子は普通科なので桜の木側へ行った。そこには合格発表の為だけにあるような掲示板があり、そこに大きく貼り出されていた。美樹と秀子は願書を出した時期が違っていたので受験番号がかなり離れていた。2人はそれぞれ自分の番号を探した。
「F450、F455……、F457っと」
美樹は自分の番号、F457番を見つけて1回頷いた。一方秀子は自分の番号、F114番を見つけた瞬間に飛び上がり、美樹の所に走りより抱き付いた。
「ああ━━━良かった〜。坂崎、アタシ、合格したよ!」
「うん、おめでとう」
美樹は祝いの言葉をかけてあげた。秀子は嬉しさのあまり、美樹の合否を聞いてなかった。2人で帰っている時も一方的にしゃべり続け、美樹の結果を知ったのは家に付いた後、それに気付いて電話した時だった。
「ゴメン坂崎」
「いいって」
美樹は全く気にせず流してしまった。
 卒業式前の日曜日。美樹は駅前の8階建てのビルの6階にある"グラーベ"という楽器店に入った。そこは6回フロアの北西側にあり、楽譜等の書籍やエレキギター、ベース等が壁側に並べられ、パーカッション、小物、アンプ等は壁側に置いてある物から人1人分開けて並べてあった。
「うん、コレいいな」
美樹は一本のギターを見て呟いた。それはZOと呼ばれる可愛いギターで、名前の通り形は象が鼻を伸ばした形をしたものだった。スピーカーがギター本体に内蔵されていて、内臓スピーカーを使えば即興も出来るし、勿論きちんとしたアンプに繋げばそれなりの音を鳴らすものだった。
 今は金を持っていなかったので買う事は出来なかったが、今回はギターの値段を見に来ただけだったので目的は果たせた。とりあえず大淵大学の文化祭のとき見たバンドのボーカリストがギターを弾く時に使っていた"ビンの頭を切り取ったもの"を探したが分からず店員に聞いた。すると店員は、
「ああ、ボトルネックね」
と言って、ギター用の小物売り場に案内した。美樹は色々な種類のそれを見て、
「沢山あるんですね」
と言って笑顔を見せると店員は少し顔を赤くして、
「え、まあ、ね。ガラスは柔らかい音で、金属使えば硬い音になりますよ。木は……、分かりません」
と答えた。美樹は、木のボトルネックを手に取った。店員が"分からない"と言った木のボトルネックの音質を知るのも面白いんじゃないかと思った。それ以前に音の硬軟なんて物自体が言葉で表すのが無理あったが━━━。そしてついでに、
「バンドメンバーってどうやって集めるんですか?」
と聞いた。店員は、初心者なのか?と思い、バンドメンバー募集の掲示板へ案内した。そこは東側にあるエスカレーターから見て一番手前にレジがあるが、その隣にあった。そこに様々なメンバー募集のビラが貼られていた。
「ここに貼ってあるのを参考にするといいですよ」
と言って用紙を1枚美樹に渡した。美樹はそれを2つに折ってポシェットにしまい、
「ありがとうございます」
と言って店を後にした。
「とりあえず、ギター、キーボード、ベース、ドラムは必要、か」
そう呟いて足早に家に帰り、急いでメンバー募集用紙を書き上げ、グラーベに戻り店員に渡すと店員は驚いた。美樹はそれを渡すとすぐに店を出た。
「ねェ、あのコ超イケてるよナ」 店員が先輩の店員に言うと、先輩はニヤッと笑い、
「ま、夢見るのは程々にな」
と返した。

 卒業式の日、3年生はそれぞれの想いを胸に卒業していく。美樹達元ソフトボール部部員は卒業式後、部室前で在校生に別れを告げ、花束を受け取ったり、ボタンを渡したりしていた。
「坂崎先輩」
2年生で、3年生引退後にエースピッチャーになった井口希美子が言った。美樹は、
「何?」
と聞くと、希美子はバットを差し出して、
「1打席勝負して下さい。ガチで」
と答えたので美樹は、
「いいよ」
とあっさりOkを出した。希美子は最後に美樹を抑えて自信をつけたかったのと同時に、自分の成長を最後に見て欲しかった。ルールは簡単で四死球を含め塁に出れば美樹の勝ち、抑えれば希美子の勝ち。2人はグラウンドに出て、他の人達もゾロゾロと付いて来た。
「じゃ、行きますよ」
 希美子はマウンドに立ち構えた。美樹もバットを構えた。
 美樹は2球見送りカウントは1-1になった。希美子は美樹が1球目の内角高めのボール球にバットを出しそうになり、2球目の外角中央を見送ったのを見て、
「坂崎先輩も半年実践から遠ざかれば……仕方ないか」
と思い、3球目を内角寄りを狙って投げた。海岸中の投手が美樹を完全に抑え込んだコースに。
パカーン!!
美樹のバットはその球を完全に捕らえた。スイングの質は全く落ちていなかった。ボールはレフト方向に伸びて行き、そして落ちた。その時間はとても長く感じた。
「坂崎先輩、ホームランです……」
捕手をやった伊口香が言った。希美子は球の行方を見た後ガクッと膝をついたがすぐに立ち上がり、
「坂崎先輩、ありがとうございました」
と頭を深く下げた。
「インコースに投げるなら、もっと球のキレ良くしてね。あと……夏、頑張ってね」
美樹は打つ時に踏み込んだ左足を2回払い、バットを伊口香に渡し、希美子に言った。希美子はそれを聞いてもう一度深く礼をした。伊口香は美樹の靴を見て驚いていた。衰えるなんてとんでもない、美樹がどれだけ鋭い踏み込みをしたか、靴の汚れを見てすぐに解ってしまった。こうして美樹の中学生活は、記録に残らないホームランで幕を閉じた。

 グラーベという楽器店に貼り出された美樹のバンドメンバー募集の記事を見て、何人かメールや電話を入れて来たので美樹は会って話をし、そして望んでるのと違うと断った。結局5人と話をして実際にメンバーに入ったのはギタリストの佐藤猛だけだった。

 三山高校入学式当日━━━。
「あ〜、坂崎とクラス別れたー!」
美樹は1組、秀子は3組だったので秀子は頭を抱えていたが美樹はそんな秀子の叫びなど何処吹く風という感じだったので、秀子は、
「坂崎って冷たいヤツ。親友がこんなに苦しんでるのに……」
とジト目で見ると、美樹は、
「ヒデの友情ってクラスが同じじゃないとダメってくらい薄っぺらいものなの?」
と顔色1つ変えずに聞いた。秀子は、
「うぐ……」
と言葉に詰まった後、
「アハハ……、やだな坂崎。んな訳無いじゃん」
と美樹の肩を叩きながら言った。そして秀子は、
「んじゃ、また後でね」
と言って自分のクラスに入っていった。

 入学式の前に一旦新入生は自分のクラスで待機する。美樹は秀子とは2つ離れた1年1組と札のある教室に入った。教室はというか学校全体が古くて汚らしかった海岸中とは違い、白又はクリーム色ベースの綺麗な仕上がりをしていた。机や椅子は少し大きく使い易そうだった。その机と椅子は35個で、中学の時より少人数のクラスだった。
 その新しいクラスには既に半数位の新しいクラスメートがいた。海岸中からの同級生はいない全く未知のクラス。みんな新しい制服にまだ慣れない感じがした。
「あれ?君、ここだったの?」
美樹が座席表を確認して席に着こうとした時に男子生徒に声を掛けられた。その男子生徒は身長175cm位で、短い髪を上向きに立てて、細い目の落ち着いた感じだった。太っても無く痩せ型でもない標準的な体型をしていた。
「佐藤さん……。ココだったんだ。改めてよろしく」
この男子生徒がグラーベの掲示板に貼って貰ったバンドメンバー募集のチラシを見て応募しメンバーになった佐藤猛だった。落ち着いた感じの外見から年上に見えたので美樹は"さん付け"で呼んでいたが、まさか同じクラスになるとは思わなかった。
「こちらこそよろしく。こらから頼むよ」
猛は美樹の席まで来て挨拶した。美樹はペコリと頭を下げ握手を求め、2人は握手した。

「桜の花が……」
入学式の校長の挨拶はいつものお約束の言葉から始まった。この式から美樹の高校生活、そして音楽生活が始まった。


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